公益財団法人 中村元東方研究所

『セナールは実際にガンジス川で日の出を拝んだか?』  前国際仏教学大学院大学教授 津田眞一

  前回の水野善文さんのエッセイの中に出てきた「アームチェア・インドロジスト」という言葉で改めて気付かされた一つの疑問があります。それはヨーロッパの仏教学黎明期の大学者E.セナールは「アームチェア・インドロジスト」であったかどうかという問題です。

  私が仏跡巡拝で始めてインドに行ったのは、昭和50年の暮れのことでした。これはこの種の初歩的なインド旅行の定番なのですが、ベナレスに出ると必ずと言ってよいほど、暗いうちにホテルを出て、ガート(沐浴場)から船でガンジスの中流に漕ぎ出し(漕ぐのは船頭さんですが)対岸から上る太陽を拝むのですが、その時ももちろんそうでした。

 私たち日本人は日の出というと太陽が山の端とか地平線から昇るのを思い浮かべますが、ここでは違います。太陽はガンジス左岸の大地を覆っている暗い、重い靄の上から顔を出すのです。
その靄はすでに明るくなった空との間に明確な一線を画しており、太陽がその一線から離れ

 
た途端に、その暗いもの(・・)は消え、荒涼たる大地がそこに拡がっております。この靄がマーヤー(迷妄)であるわけですが、セナールは仏の誕生と共に消え去ったその母・マーヤーを、この靄なるマーヤーとしてその誕生と共にこのマーヤーを消失せしめた仏陀を太陽の表徴であったと考えたわけです。

 勿論これはセナールの端的な間違いで、私たちはそれをヨーロッパ仏教黎明期におけるいわば滑稽なエピソードの一つとして教えられていた訳ですが、私は始めてのインド、始めてのガンジス川で日の出を拝んだとき、このセナールの間違いを思い出すとともに、何故かは知らず、「セナールはやっぱり・・・・
()天才だったのだ」と強く感じたものです。

 ここで話はもとに戻るのですが、私の疑問というのは、セナールが実際にインドへ行ってそのガンジス川の日の出を眺めた上でそういう想念に至ったのかどうかという問題です。私はそういう知識を欠いているので、どなたかにぜひ教えて
  

 
いただきたいと思います。

 もし彼が書斎の重厚なアームチェアーに坐してこの想念に至ったのだとしたら、それはそれで天才です。しかし、彼が現実にガンジス川の日の出を眺めつつこの想念に至ったのだとしたら・・・。そこに於いて彼がその間違いの更に深いレヴェルで撞着していた筈の眞理、インド的精神性の本質にかかわるものであった筈のその眞理とはいかなるものである筈なのか・・・。

 セナール自身にそんな眞理の観念があったのか、と問うことは出来ます。しかし、学問的には、それは今でも厳然として在る、私たち仏教学・広義のインド学に携わる者にとって、厳然として在るのです。丁度日に照らされたマーヤーが、しかも厳然としてそこに存在し続けているように・・・。


 

【新刊案内】当研究所関係者が主として関わった新刊書のご紹介

田中公明著

『仏教図像学』
インドに仏教美術の起源を探る


仏像や仏画の象徴的意味を読みとる仏教図像学のわが国初の入門書。仏・菩薩・天部・女尊等から曼荼羅まで仏教美術を総合的に解説。







単行本: 290ページ
出版社: 春秋社 (2015/8/27)
言語: 日本語
ISBN-10: 4393119096
ISBN-13: 978-4393119099
発売日: 2015/8/27




 
森祖道著

『スリランカの大乗仏教』
-文献・碑文・美術による解明-


今は忘れ去られた、彼の国の大乗仏教・密教の足跡を、サンスクリット・パーリ・シンハラ語諸文献はもとより、碑文銘文・美術彫刻など考古学資料をも駆使して、その全貌を丹念に浮き彫りにした画期的総合研究。






単行本: 496ページ
出版社: 大蔵出版 (2015/6/25)
言語: 日本語
ISBN-10: 4804305912
ISBN-13: 978-4804305912
発売日: 2015/6/25

 
佐久間留理子著

『観音菩薩』
変幻自在な姿をとる救済者


人気の高い十一面観音や千手観音など十種の変化観音を取り上げ、そのルーツから観音経典、観音像の図像的特徴まで徹底解説。
多くの顔や腕もつ「密教的観音」(変化観音)のルーツをインドの観音経典や信仰に探るとともに、インド・ネパール・チベット・中国・日本における観音像の図像学的特徴、実践儀礼、説話、霊験譚なども紹介する。



四六版: 264ページ
出版社: 春秋社
言語:日本語
ISBN: 978-4-393-11920-5 
発売日:2015/10/28
 

智慧の大地  茨田通俊(中村元東方研究所・東方学院講師 関西校)

智慧の大地

茨田通俊

 インド学を学ぶ以上、実際にインドの地を訪ね、その文化に直接触れることが望ましいのは言うまでもない。1984年の暮れに仏跡巡拝旅行で訪れて以来、インドには計4回足を踏み入れている。しかし、最後にかの地を訪れたのは1997年のプネーでの短期留学なので、もう17年もの間ご無沙汰していることになる。

 悠久の大地インドなどと言ったのは一昔前の話で、今やインド社会は加速度的な変化の波に晒されている。世界が瞠目するほどインドの経済発展はめざましく、地方ではずっと仏陀の時代と変わらない生活をしているとされていたのが、わずか20年程でまさに劇的な発展を遂げることとなった。私が学んだプネーなどは道路の拡張整備が進んで、街の様子が一変してしまったと聞いている。

 ごく一握りの富裕層と圧倒的多数の貧困層から成るとされていた人口構成も、近年は中産階級の層が厚くなり、余暇を楽しむほどのゆとりのある人たちが増えた。当地の経済が豊かになった分、日本人がかつてのようなバックパッカーとしての安価な旅行を楽しむことは、難しくなってしまった。

 また、ゼロを生んだ国の数学力は半端ではないようで、発展著しいコンピュータ関係の仕事は、国民の人気の的である。一方で我々が専門とする古典インドの研究は、現地でも顧みられなくなり、インド人でさえ難解極まりないサンスクリット語などは、学生からも敬遠されているそうだ。生活の糧を得るために、少しでも経済的に有利な職が用意されている学問に、人気が集まるのは仕方がないのだろう。ただ、自国の文化に対する誇りが失われることがあれば、本当の意味での国の発展は期待できないのではないかと勝手に心配してしまう。

 こうしたインドの現在の様相に、高度経済成長期の日本の姿がだぶって見える。経済発展が幸福につながると信じて止まずに突き進みながら、その後の低成長時代を経て、何が幸せなのかが見えずに彷徨している極東の国の現実は、今のインドの人たちの目には映っていないのかも知れない。

日本人がかつてインドに抱いた憧れは、かの地に生まれ、我が国にも多大な影響を及ぼした、仏教をはじめとする豊かな思想文化への崇敬と同時に、近代日本が経済発展の代償として失ったものに対する郷愁に基づいていたのではないだろうか。

 もちろん貧困や差別の現実を無視して、部外者の目でロマンや感傷に耽ることは許されない。物質的に発達を遂げていない前近代社会を、無責任に讃美するつもりもない。経済的豊かさはやはり人間が求めてしかるべきものであり、そのための努力を惜しむには及ばないだろう。しかし、インドの街に共通してあった独特の臭気や、素足の子どもたちの大きな瞳の輝きは、人間が生きているという存在の原点を、雄弁に語っていたのではないだろうか。インドとは、生の意味を豊かに教えてくれる智慧の大地でもあるのだ。

 

 

東方学院中部校主催~中村元インド哲学カフェ~「インドの叙事詩と観音信仰」開催のお知らせ

~中村元インド哲学カフェ~
「インドの叙事詩と観音信仰」
インド文化・仏教文化を
まるごと楽しもう!

 
【日時】 2016年9月25日(日)14時~16時
【会場】 東別院会館

 (名古屋市中区橘2-8-55)
※地下鉄名城線「東別院駅」より徒歩3分
※市バス「東別院前」バス停より徒歩5分

【参加費】 1,000円(資料代など含む)
【定員】 25名(先着順)
※事前申込み不要!

【主催】 東方学院中部校
【問い合わせ先】
公益財団法人中村元東方研究所 ・東方学院(東京本校事務局)
TEL:03-3251-4081



※※※ プログラム内容 ※※※

1.『バガヴァッド・ギーター』入門
                  (平野克典)

2.パクティ・ヨーガ(信愛の道)と観音信仰
               (佐久間留理子)

 
~カフェタイム~
参加者全員で気軽に対話できるひととき

◆中村元インド哲学カフェチーム(中村元東方研究所 専任研究員)
佐久間留理子、服部育郎、平野克典