公益財団法人 中村元東方研究所

バニヤンの樹のごとく

 中村元―まるでインドの地に深く根を下ろす世界一の巨木、バニヤン樹のように、学殖と智慧と慈悲に満ちた巨大な偉人。
 バニヤンの樹は、幹から横に枝がのび、その枝から馬の尻尾を思わせる気根が出て、空中にたれ下がる。気根はだんだんと生長して地面に達し、さらに地中にのびて木の根となる。はじめは細かった気根の部分は、やがて堅く太くなり、立派な幹へと姿を変える。りっぱに変身した幹からは、ふたたび新たな枝がのびはじめ、そこから気根がたれ下がり、別の新しい幹となる。
 こうしてたった一本の幹から何百本もの幹ができ、ついに壮大な林を創りあげる。そして、容赦なく照りつける太陽の暑さを逃れてくる人々を、分け隔てなく優しく迎え入れ、木陰の涼しさをそっと与えてくれる。そんな強く優しいバニヤンの樹。
 インドという地に生まれ、この大地に深く根を下ろした仏教の「中観哲学」の研究にはじまった中村元博士の仕事は、インド哲学、仏教学、そして比較思想、はては世界思想構築という、誰しもなし遂げえなかったいくつもの大きな幹を形成し、それぞれの幹は多くの枝を伸ばして、新たな研究を生み、また研究者を生み育て、やがて東洋思想の研究を推進する大いなる森、中村元東方研究所が育まれました。
 そのもとには、疲れ乾いた心に涼を求める人々がしぜんと集い、深く広い研究に裏打ちされた「慈しみのこころ」に癒される場が生まれ、いかなる隔てもなく共に学べる寺子屋、東方学院が誕生しました。

中村元記念館のご案内

中村元記念館とは


記念館エントランス
中村元記念館は、中村元博士の業績の顕彰および、仏教学・インド哲学をはじめとする東洋思想の普及・啓発を目的として、 生誕100年である平成24年に、島根県松江市八束町に設立されました。
館内には、中村元博士の書斎を復元しその研究業績の数々を紹介する「展示室」、博士の蔵書約3万冊の一部を展示し、 東洋思想に関する本を自由に閲覧できる「図書閲覧室」、講座や研修に利用できる「研究室」、

図書閲覧室
東洋思想や哲学に関する子ども向けの本を閲覧できる休憩スペース「さるすべりコーナー」等を備えています。

再現された中村元書斎
中村元記念館は、東方学院松江校の運営、東洋思想に関する講演会・学会の誘致、協力大学のサテライトキャンパス、 独自刊行物の発行、企画展の開催、アジア音楽・舞踊等のイベントの開催、研究旅行の企画、 インドと山陰の経済・文化交流の推進等の事業を行い、日本における東洋思想研究の拠点となるべく活動しています。
特定非営利活動法人中村元記念館東洋思想文化研究所 利用案内
 Webサイトはこちら
〒690-1404 島根県松江市
八束町波入2060番地 松江市八束支所2F
開館時間10:00~18:00(入館は17:30まで)
休館日月曜日
夏季休館(8月13日~8月15日)
年末年始(12月27日~1月3日)
入館料無料

【東方学院松江校】

中村元記念館では、東方学院松江校をひらいています。仏教をはじめとした東洋思想について、大学のような90分の本格的な講義を受けることができます。水と緑の古都・松江で、奥深い魅力にあふれた東洋の智慧を学んでみませんか。
東方学院松江校へのお申込・お問い合わせ先
 Webサイトはこちら
〒690-1404 島根県松江市
八束町波入2060 松江市役所八束支所2F
中村元記念館
電話0852-76-9593
FAX0852-76-9693
メール

中村元略歴

1912
11月28日 島根県松江市殿町に生まれる
1925
東京高等師範学校付属中学校入学
しかし腎臓の病気を患い一年間の休学、宗教・哲学関係の書物を耽読
1930
第一高等学校文科乙類入学
この時代の恩師との出会いは後の学問の支えとなり、友人との堅い絆は後の東方研究会・東方学院設立の礎となった
1933
インドや仏教の哲学思想に奥深さと温かさを感じ、東京帝国大学文学部印度哲学梵文学科入学
1936
同大学大学院入学
インド哲学、特にヴェーダーンタ哲学を研究
1942
博士論文(『初期ヴェーダーンタ哲学史』)提出
1943
東京帝国大学助教授に就任、5月 文学博士
1951
『東洋人の思惟方法』が評価され、米国スタンフォード大学より客員教授として招聘、以後外国から受けた招聘は50回を超える
1954
東京大学教授に就任
1957
日本学士院賞恩賜賞受賞(『初期ヴェーダーンタ哲学史』)
1960
『東洋人の思惟方法』がユネスコ国内委員会により英訳
1964
文学部長に就任、いずれの学科も利用可能な「文化交流研究施設」の設立に尽力、第一類で初めて「比較思想」の講義を行なう
1966
近代インドの思想家にしてインド第二代大統領ラーダークリシュナンより「知識の博士(VidyAvAcaspati)」の学位
1967
オーストリア学士院遠隔地会員
『仏教語大辞典』の原稿紛失、一ヶ月後再執筆開始

中村元略歴

1970
財団法人東方研究会創立、理事長就任
学生時代の貧しい生活の経験から、無職の若手研究者の研究継続のための道を開く
1973
東京大学定年退官、同大学名誉教授
学園紛争の経験から東方学院設立、学院長就任、デリー大学名誉文学博士、ベトナム・バンハン大学名誉文学博士
1974
比較思想学会初代会長就任、紫綬褒章受章
1975
『仏教語大辞典』刊行 (毎日出版文化賞、仏教伝道文化賞受賞)
1977
文化勲章受章
1978
イギリス王立アジア協会名誉会員、ネパール国王より勲章
1982
ドイツ学士院客員会員、スリランカ・ケラニア大学より名誉学位、中国・西北大学より名誉教授の称号
1983
比較思想学会名誉会長就任
1984
勲一等瑞宝章受賞、日本学士院会員就任
1989
松江市名誉市民
1994
第24代史跡足利学校庠主就任
1999
NHK放送文化賞受賞
『中村元選集』[決定版] 全40巻刊行完了
1999年10月10日
逝去、享年86歳

中村元業績

 中村元博士の業績は、追悼号である『東方』第15号掲載の著作目録の目次をみただけでも分かるとおり、余りにも膨大で、ここに一つ一つ取り上げることなど到底不可能です。
 今その本質的な部分だけを紹介しますと、およそ次のように言えるでしょう。
 まず博士は、非凡な語学力と綿密にして厳格な文献学的手法を駆使し、膨大な資料を収集し、その的確な整理と分析を基礎に、インドの文化を、歴史的・思想的に解明しました。その際、単に思想そのものを解明するだけでなく、インドの歴史を明らかにすることによって、インドの思想文献をインド人の生活や社会的現実と連関させてとらえ、その上でインド思想の意義を理解しようと心がけ、インド思想研究を深化させ、また大きく進展させました。
 博士は哲学者でありながらも、歴史学者ならばそれだけで一生の仕事となるような業績『インド史』2巻がある所以です。
 仏教研究の分野においては、従来は宗派の教義研究が主であった仏教研究に対し、初期仏教聖典にもとづき、「ゴータマ・ブッダが何を教えたか」を究明したことがまず挙げられます。恣意的な研究を避け、言語学的、文献学的、考古学的根拠によって客観的に考察し、歴史的人物としてのゴータマ・ブッダの姿を浮かび上がらせました。
 また博士は、仏典の言葉を、現代の日本人に共通な言葉で理解することを可能にしました。すなわち、難解な仏典を、平易でしかも精確な邦訳で、多くの一般読者のみならず専門家に対しても、提供したのです。
 それは、原典からのわかりやすい翻訳による仏典の提供や、さらに「火星語」ともいわれる理解しがたい仏教語を、平易な日本語で解説した不朽の辞典『広説佛教語大辞典』全4巻の刊行といった形で具現化されています。これは、従来の仏教辞典の概念を変え、仏教研究史上一時期を画したと言えましょう。
 博士のこのような努力は、仏教やインドの哲学的思想を専門分野以外の研究者にも開放することになり、諸学におけるこの分野の研究をして高からしめました。
 博士はまた、日本における比較思想研究の分野を開拓しました。

中村元業績

 インド学・仏教学という特殊な文化圏に関わる研究を踏まえ、解明がきわめて困難な「東洋人の思惟方法」を、独特な方法論をもって東洋の主な国々についてえぐりだす、この方面の最初の優れた研究をはじめ、博士は、インドの思想を、他の文化圏との比較においてとらえなおす比較思想研究への道に先鞭をつけました。インドから始まった研究は、東洋に広がり、やがて「世界の諸文化圏における諸文化的伝統において平行的な発展段階を通じて見られる共通の問題」を纏め上げるに至り、人類に普遍的な思想の解明にまで及ぶことになりました。
 西洋思想史における、アリストテレスの偉大な仕事を讃える仕方からすれば、いわゆる「哲学」に属する、以上の思想研究の分野の他に、中村博士は、アリストテレスと同様、「論理」や「倫理」の分野における偉大な仕事があります。これを最後に紹介しておきましょう。
 博士は、元来普遍的であるべき論理学体系が文化圏により異なっていることを指摘し、東西の論理的思考の構造を究明し、人類共通の思考の枠組みである判断と推理を検証し、否応なくグローバル化する世界に必須な普遍的論理の構築を目指しました。『思想』に長らく連載された原稿をもとに単行化された『論理の構造』はその代表的な成果です。
 また「論理とそれを成り立たせている倫理の解明」の必要性を考えていた博士は、『論理の構造』2巻の執筆と平行して、さらに倫理へとその研究を掘り下げ、「構造倫理講座」を連載し続けました。博士の遺志は、それを受け継ぐ東方研究会によって編集され、博士の七回忌に『構造倫理講座』3巻として出版されました。
 通常、学問研究は、その対象が、空間的ひろがりと時間的ひろがりにおいて、非常に限定されているものです。
 ところが、博士は、その視野を、インドから東洋諸国のみならずユーラシア大陸全体に、また時代的にも古代から現代にまで広げ、比較思想の手法を駆使して、まれに見る世界思想史の構築に成功したのです。

中村元博士著作論文目録

中村博士の著作は、約1500本(機関誌『東方』第15号・中村元博士追悼号の目録にて1497本、1999年)にのぼり、
その詳細を掲げることは不可能です。
ここでは目録の目次を掲げることで、その膨大多岐にわたる内容のご紹介とさせていただきます。
題目や発表年などの詳細は、『東方』第15号をご覧ください。
『東方』頒布につきましては、在庫のあるものに限り講読会員にお頒けしております。
詳しくは、定期刊行物のご案内をご覧ください。また、非会員で閲覧希望の方は事務局までお問い合わせ下さい。
※各項目()内の数字は、その項目の論文・著作数

【邦文による著作】(1186本)

A 新しい思想体系への試み─文明論(115) 
B インド思想史
 a 全般(29)
 b インド思想における特殊問題(23)
 c サンスクリット(5)
C インド哲学諸学派
 a ヴェーダ、ウパニシャッド、叙事詩(19)
 b 初期ヴェーダーンタ哲学史(20)
 c シャンカラおよび不二一元論派(27)
 d 言語哲学(12)
 e マドヴァとヴァッラバ(2)
 f 唯物論(1)
 g インド論理学、ヴァイシェーシカ(20)
 h サーンキヤ(1)
 i ヨーガ(10)
 j ジャイナ教(9)
 k ヒンドゥー教(21)
D 現代インド思想・南アジア思想(59) 
E インド古代史と社会
 a 古代史(45)
 b 社会思想(12)
F 仏教
 a 仏教一般(106)
 b 仏教の現代的意義(28)
 c 原始仏教(142)
 d 伝統的保守仏教(21)
 e 大乗仏教(58)
G チベット・ネパール(8) 
H 東アジア─シナおよび朝鮮(19) 
I 日本思想・日本仏教(80) 
J 比較哲学(45) 
K 世界思想史への試み(84) 
L 文化の交流─東と西(51) 
M 学問論・学界報告(67) 
N 提論
 a 国家と宗教(17)
 b 新しい研究と教育(28)
 c 国字による表現の問題(2)

【外国語による著作】(311本)

A アジアの言語によるもの(27) 
B 欧文によるもの
 a, Indian Philosophy(51)
 b, Sanskrit(1)
 c, History of India(1)
 d, Jain Studies(9)
 e, Buddhism(106)
 f, Tibetan Studies(3)
 g, Chinese Ways of Thinking(2)
 h, Japanese Thought(32)
 i, Comparative Philosophy(16)
 j, Comparative History of Ideas(24)
 k, Interchange of Culture(15)
 l, Contemporary Eastern Thought(6)
 m, Reports on Indian Studies in Japan(6)
 n, Prefaces and Recommendations(8)

エピソードが語る中村元の素顔

辞書原稿紛失事件

 中村博士は「仏教語を日本における万人共通の言葉に出来ないか」との強い願いから昭和21年、仏教語辞典の編纂を開始。以来、20年の歳月をかけ、さまざまな研究の傍らこつこつと書き溜め、その原稿は、実に約3万枚に及びました。
 ところが、出版を目前に控えて、出版社の保管ミスにより昭和42年12月初め、その原稿がすべて紛失してしまいました。警察、探偵社、製紙会社や風呂屋まで、新聞社の広告やチラシなど、あらゆる手立てを尽くし探しましたが結局見つかりませんでした。
普通であれば、出版社を責め、言い知れぬ思いに着し、自他共に傷つくものでしょう。
ところが中村博士は違いました。その一つが、紛失の連絡を受けたときの博士のことば。紛失の連絡は、食事をされている時にありましたが、電話を受けた博士は、少し無言で電話を切ったあと、ひとこと「原稿がなくなったというんだよ」と家族に告げただけで、ついに紛失者を責められる言葉は一切口にしませんでした。
そして、一月後には新たな原稿の執筆に取りかかりました。
再出発後10年をかけて、多くの弟子初め、沢山の方々の協力と援助の下に辞典は完成しました。その数13万枚、辞典に盛られた語彙数は4万語に及びました。
そして完成直後、博士はただちにその改訂に着手、約1万に及ぶ新項目はじめ改訂用に用意されたカードは、その数十万枚を超えるものでした。
「人々の役に立つ、生きた学問でなければならない」ことを常々説いていた博士は、佛教辞典についても、伝統的な仏教語にたよらずに、現代人が理解しやすい日本語で解説することを早くから企図し、その実現にむけて、あらゆる機会を捉えてはさまざまな資料を集め、膨大な原稿を用意していました。
その折々の成果は、少なくも3度、中村辞典として公にされましたが、いつの時でも、博士にとってそれは完成版とはならず、完成に向けての原稿作りは、文字通りライフワークとして、博士に残された命が数ヶ月を切り、もはやペンを握れなくなる時まで続きました。
 「私は、研究を勉め強いてきました」と笑いながらおっしゃられる背後に潜む不屈の意志が、苦難を乗り越え、「不朽の盛事」にふさわしい辞典を完成させたのです。
 二度の改訂を経て、いわば中村仏教語辞典の決定版ともいうべきものとして公刊された『広説佛教語大辞典』全4巻は、53000にも及ぶ語彙数の豊富さ、文献学的確固たる基礎に支えられた確かさに加え、「わかりやすい」という博士の強い願いが具現化された一大特徴のゆえに、多くの人々に受け入れられ、また中国語にも翻訳されています。
(辞典にまつわる一連のいきさつは、佛教語大辞典1975年、広説仏教語大辞典2001年、縮刷佛教語大辞典2010年のあとがきに詳しく記されています。)

エピソードが語る中村元の素顔

ブッダへの帰依

 ブッダの教えを広く人々に伝えようとされた中村博士は、東方学院を訪ねてこられる方に対して、一切分け隔てをしませんでした。そして、お会いになった後には、かならず来訪者とともに理事長室を出られ、エレベータの扉が閉まるまで笑顔で見送りました。
それは、晩年になって、杖をゆっくりつきながら歩くことがままならない時になっても続きました。
博士が死期を察せられた頃のある象徴的な出来事を、ご親交の深かった写真家の丸山勇さんが本会の機関誌『東方』第15号(追悼号)にご寄稿下さいました。
 出版物の打ち合わせで神田明神の東方学院に中村元先生をお訪ねしたのは、平成8年2月29日の昼下がりであった。
お目にかかるなり、
「丸山さんにお願いがあるのですが」
「何でございましょうか」
「実は、写真を一枚引き伸ばして頂きたいのですが。私も、この年になりますと先のことを考えなければと思うのです。いずれ行く処にいかねばならない時が来るので、その前に、私なりに準備をして置きたいと思っているのですよ」
「もちろん喜んでお作りさせて頂きますが、写真は何がよろしいでしょうか」
「できたらサールナート出土の初転法輪像をお願いしたいのですが。いずれその時が来たら、長い間お世話になっている明神さんで何等かのことをしなければいけないと思っておりますので。その際には、私の写真は小さく奥に飾って、前面に初転法輪像を掲げ、おいでになった方々には私にではなく、ブッダに礼拝して頂きたいと思っているのですよ。私は、生涯ブッダに仕えた身ですから。」
しかし、お別れしてから、ご依頼の趣旨が趣旨だけに、余り早くお届けしても、また、遅すぎても失礼になるし、いつお届けしたら良いか悩み続けていた。
お手元にお届けした5ヶ月後の平成8年7月25日が昨日のように思い出されます。(丸山勇「写真の想い出」より抜粋)
 それから3年の月日が流れ、平成11年10月10日、博士は静かに息を引きとりました。博士の遺志をうけ、葬儀では、ブッダが最初に説法をされたサールナートの地で出土した初転法輪像が博士の遺影とともに飾られました。
参列された人々が初転法輪像に合掌する姿が印象に残る、中村博士との最期のお別れとなりました。

釈尊の初転法輪像
博士は生前「このブッダ像はもっとも穏やかなお姿をしておられる」と讃えていました。

慈しみのこころ、墓碑に刻まれた願い

 中村元博士が、その86年の人生を学問一筋に打ち込み、東西の思想の蘊奥を極め尽くして、最後に到達されたもの、それは「慈しみのこころ」でした。
 亡くなる数ヶ月前に認められた一文のなかで、博士は次のように語っています。
「私は長い間、東洋の思想・精神的伝統の探求をしてまいりました。それを貫く〈東洋のこころ〉というものがあるとすれば、それはいったい何か。その底に流れるものを求めての半生であったといっても、過言ではないように思います。
・・・その何かこそ〈温かなこころ〉ということではないかと思うのです。」(『温かなこころ 東洋の理想』)
 笑いながら「私は字が下手だから」と、サインの求めに対してやさしくお断りになった博士が、是非とも、との所望に書かれたことばは、インドの文字で書かれた「慈しみのこころ」でした。博士は菩提寺である松江市の真光寺と東京の多摩墓地に眠っています。
 博士は、墓地(東京都:多摩墓地)に「ブッダのことば」と題した石碑を立て、後世に残しました。このことばは、原始仏教聖典の一つである『スッタニパータ』(ブッダのことば)から博士が訳したもので、洛子夫人ご自身が清書され、それを墓碑に刻んだものです。
この「ブッタのことば」は博士が(財)東方研究会・東方学院に示された指針であると同時に21世紀の人類に示されたメッセージでもあります。
 また墓碑には、ご自身でつけられた法名「自誓院向学創元居士」も刻まれています。